1582年(天正10年)5月15日、徳川家康は織田信長の安土城に招かれました。
家康は[駿河三カ国の大名になった]お礼報告後、信長より数々のもてなしを受けました。
 家康は信長に、「京や堺を見物して帰るがよい」と言葉をかけて頂きまして、5月21日に
京へ入り、又5月29日には堺に入って見物の後、6月2日の朝、わずかな共の者と堺を
出発し、信長にお別れの「あいさつ」をするため、京へ向かいました。途中、本多忠勝より
「織田信長様が京の本能寺において、明智光秀の謀叛に遭い自害した。」
との知らせを受け、明智の手の者が押し寄せてくるのを察知して、服部半蔵の機転で
伊賀・鈴鹿を越えて伊勢湾に出る策をとりました。
 途中、野武士達に会いその時一行の中にいた茶屋清延がお金を野武士にやり通行でき
難を逃れました。それから一行は加太越(かぶとごえ)の峠を苦難の末通り抜け、
6月6日白子(しらこ:三重県鈴鹿市)の浜に着きました。
 ここで、白子町の農民孫三と出会い、家康は孫三に「海を渡る船を出せ」と命じました。
孫三は仰せに従い夜にまぎれて小船に乗り会わせ、若松の浦より漕ぎ出し尾張国床鍋
に着船し、三河国大崎まで無事に送り届けました。
 家康公の危機を救った人達の一人に、小川孫三らがいたと云ううわけです。

 この事件から、4年後(1586年:天正14年8月14日)、徳川家康は孫三に
「危機を救った」礼に地子諸役免除の「御朱印」を与えこのときの領地
(郡郡、慶長以前は藤枝東の芝間の地と云う)に住まわせ、
地名を「新白子町」と定める事になりました。・・・現在は白子町です。




--資料提供--
白子保存会
藤枝市本町2丁目2番25号